貼雑歩録 Ver.2.0

日々の情報から拡散する好奇心と、思考の断片をスクラップブックのように書き留める試み。

武田百合子『ことばの食卓』(ちくま文庫)
食べ物にまつわるエッセイと言うとほんわかした雰囲気に聞こえますけど、そんな単純じゃ無さそうですよ。母方の実家が房総なので僕自身枇杷が大好きなんですが、そんな事もあって冒頭の「枇杷」という1編が非常に気になったのです。それなんか、うっすらと死臭がしてますよ。たった3ページと1行のエッセイだけどこの不穏さはただ事じゃありません。ISBN:4480025464

 さしみのように切るのを待ちかねていて、夫はもどかしげに一切れを口の中へ押し込みました。

「ああ。うまいや」

 枇杷の汁がだらだらと指をつたって手首へ流れる。

「枇杷ってこんなにうまいもんだったんだなぁ。知らなかった」

 一切れずつつまんで口の中へ押し込むのに、鎌首を立てたような少し震える指を四本も使うのです。そして唇をしっかり閉じたまま、口中で枇杷をもごもごまわし、ながいことかかって歯ぐきで噛みつくしてから嚥み下しています。歯ぐきで噛むということは顔の筋肉を歯のある人より余計上下させなくてはならないので大へんなことです。唇のはしに汁がにじみます。眼尻には涙のような汗までたまっています。

 

「枇杷」より P.9-10