貼雑歩録 Ver.2.0

日々の情報から拡散する好奇心と、思考の断片をスクラップブックのように書き留める試み。

クロード・シモン『路面電車』(白水社)
早速再読。そもそもヌーヴォー・ロマンと言われる作家達の作品がなぜこんな読みづらい文体で物語性もあるのか無いのかわからないものになるのかと言うと、彼らの目指す所は「世界をただそこに現前している意味もなければ不条理でもない、言語化以前のはだかの状態にあるものとしてとらえ、その感触をこそ言語化するのが現代文学の課題であると考えている」から。言語化以前の状態の言語化、という一見不可能にすら見える挑戦なのだけど、そこだけをこれほどまでにストイックに追求する必要があるのか、ちょっと考えてしまった。そりゃもちろん所々とても美しいと感じたけれども、それだけでいいのか、と。難しい。解説がとてもわかりやすい例えをしていたので引用しておく。

たとえば、スクリーンの上に1個の椅子が写し出されるとすると、観客はただちにそれを「今まで誰かが坐っていた椅子」ないしは「これから誰かが来て坐るはずの椅子」などと意味づけようとする。だから、その映像が理由もなくながい時間、物語と脈絡づけるに十分な時間以上に長い時間固定されると、椅子がただそこに、意味もなく写し出されていることに耐えられなくなるものである。そのように、世界がただそこに、厳然として在るだけだと考えることは、われわれの習慣づけられた感性には耐えられない。だが、それこそが唯一の「真実」だとしたら、それをいかにして紙の上に立ち上がらせるかも、純文学の課題ということになる。

 

解説より

路面電車