貼雑歩録 Ver.2.0

日々の情報から拡散する好奇心と、思考の断片をスクラップブックのように書き留める試み。

須賀敦子『塩一トンの読書』(河出書房新社
「すじ」を読むだけが小説じゃないんだ!そこからどんだけ離れた楽しみ方ができるかってのも小説の面白さ。読み終わって、どんな話かなんて覚えてないような本でも良いものはたくさんある、はず、だ。そもそも詩なんて「すじ」読もうとする人にはサッパリだろうし。それに「すじ」が楽しみたいなら映画でも漫画でも「すじ」を楽しむと言う事においては代替可能な訳で、どうせ小説読むなら小説でしか味わえない何ものかを求めたいな、と思ったりもします。映画でも、漫画でも、同じこと。

私たちは、詩や小説の「すじ」だけを知ろうとして、それが「どんなふうに」書かれているかを自分で把握する手間をはぶくことが多すぎないか。たとえば漱石の『吾輩は猫である』を、筋だけで語ってしまったら、作者がじっさいに力を入れたところを、きれいに無視するのだから、ずいぶん貧弱な愉しみしか味わえないだろう。

 

「塩一トンの読書」より P.12

 

塩一トンの読書