貼雑歩録 Ver.2.0

日々の情報から拡散する好奇心と、思考の断片をスクラップブックのように書き留める試み。

蜷川幸雄演出『ソフォクレス:オイディプス王』
ギリシャ公演の模様を録画しておいたので見てみる。まずオイディプス王と言う話自体に圧倒される。話のイメージを損なわない良い演出だったんだろう、多分。東儀秀樹の音楽がやや違和感があったが、衣装の素晴らしさはそれを補って余りあった。オイディプス王と言う人は非常に近代的と言うか現代的と言うか、あの時代の中で特殊な人。オイディプスは父殺しの予言を受け、その実現を避けるために祖国に背を向けた時、神々にも背を向けたのでは無かったか。以後彼は神の知恵を頼るのでは無く、自分の頭で考えた。神の知恵に頼り、答えを求めた者たち(=テーバイの人々)ではなく、オイディプスがスフィンクスの謎に答えられたのは作中の言葉にあるようにオイディプスが「自分の知恵で考えた」人だからではないか。スフィンクスの話は自らの知恵で考えない者には自分の事を問われていてもそれに気づかないという皮肉な解釈も可能だ。(スフィンクスは「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。これは何か」と問いかけた。)だが、知恵のあるオイディプスは自らの知恵で、自らのおぞましい秘密を解き明かしてしまう。神に翻弄される哀れな人、と言うイメージが強かったが、今回見ていたらそれでもなお、オイディプスは神に服従する事を拒んでいるように思えた。彼は謎が解きあかされた時、先に自殺した妻の装身具で両目を突き、盲目となるのだが、これは単に絶望したからと言うだけではないように思えた。オイディプスを翻弄した神託を下したのは太陽の神アポロンな訳で、光の拒絶はアポロンの拒絶ともとれなくはないんじゃないかな、と。物語はオイディプスの処置について再度神託を求める義弟とそんな手間をかけずに自分を追放しろと叫ぶオイディプスの描写で終わる。オイディプスは子供には神に祈れと言ったり、表面的には神に従順な態度を示しながらも、本質的には自らの意志としての追放を主張し続けるのである。意志の人、考える人としてのオイディプスというお話。